アニメ『メダリスト』は中流層以上の親の子どもにフィギュアスケーティングを習わせる功罪をコミカルにしれっと描いている

アニメ『メダリスト』を現在2話まで見た。 同名の漫画が原作だが肝心の原作は読んだことがない。 漫画を数話のアニメの尺にリサイズしたことで省略されているシーンがたくさんありそうだが、以下の点でスポーツ漫画・アニメの中で非常に稀有な作品だと思った。

  • これまでのスポーツ作品と違い、習い事に通う子と通わせる親のそれぞれの精神性、関係が描写されている。
  • 上記に加えて、スポーツを志す子どもを自立した一人格として描いている。
  • 習い事の中でかなり高コストのスポーツを題材とすることで、野球やサッカー、バレーなどではあまり表象が難しい、我が子を使った親の欲求充足、エゴといった負の側面も描かれている。

とくに3つ目について深堀りしてみよう。

通わせる動機の多様性

まず現実においては、フィギュアスケーティングは習い事の中でもかなり高額な費用がかかるはずで基本的には平均以上の家庭が様々な動機から子どもに習わせるスポーツだと推察する。

通わせる動機は多様で、この作品の中で主人公の仲間やライバル、同じ練習場のスクール生もいろんな親の動機を起源に通っていることが描かれている。

まだ2話目までの観察に基づくが

  1. 子どもを親自身のコレクションするきれいなフィギュアにするために通わせていると思われる親
  2. 我が子が興味を示したスポーツを試してみて、漠然と子どもの成長に資すると思って通わせている親
  3. 親自身が達成できなかったスポーツ選手としての夢を子どもに託している親

などが見られた。

さて子どもに芸事を習わせる動機が近世以降でどのように変化したのかを考察する。 近代までの西欧諸国や日本では、自分の家の家格を上げる手段として大人が自分の子どもに芸事を習得させ、西欧の領主や日本の地頭に披露することが主な目的の1つにあったと思う。 フィギュアスケーティングは近代以降に発達したスポーツだと思うが、舞踏やピアノ、バイオリンも同じ感じで、人の感性を演者の身体表現によって揺れ動かす何れの芸事も、 その性質上、階級の存在した社会においてより上位の権力者の占有する娯楽の対象となっていた。演奏会や舞踏会などで権力者が目をつけた相手に接近して、自身の娯楽として 屋敷や城に招いたり、スポンサーとなることで占有、部分所有したり、またはお互いの家格を上げるための政略的な目的から利用されていた。 もちろん他には家庭内に留まる娯楽としての目的も十分にあったとは思うが。

ただ領主の権力性、王権性がなくなった現代では、家格という概念もほぼ消失している。 この現代において、どこかの田舎の井戸会議で「徳川御三家の家格の順位に関する見解」みたいなことがトピックになることはないだろう。

アートや身体芸術が市井に開かれた現代においては、制作費数10~100億円規模の肝いりの映画だって、国家の元首も普通の会社員も関係なく公開日から同じチケット代で視聴できるし、 複製のできない絵画や演劇、ピアノ演奏会だって、誰でも少々のお金を払えば上質なものを見に行ける。芸術家と芸術家からひねり出される作品の一部の階層の人による占有みたいなことがなくなっているわけだ。

確かに職の世襲文化は完全に消えたわけではなく、芸能界や政治、医師などでは現代でも残っていると思うが、逆にいうとそれくらいだろう。家の経済的豊かさによる世代をまたぐ豊かさの連鎖みたいなのはあるだろうが、 それは世襲とは違う話。

なので現代においては、親が自身のエゴや欲求充足を動機として子どもに何かを強いることは非合理的と言わざる終えない。 まあ身内の集まる場で親戚家族に我が子を自慢するという(別に不健全ではない)一般的な行為が一種の「家格の誇示」だと言えば、家格を上げる動機が現代に完全に失われたと言えないかもしれないけれど。 逆に言うと動機として残っていても、その場が盛り上がり、親戚家族にも応援してもらえるくらいの小さい利益しか得られない訳で、やはり主要な動機とするのは非合理的である。

アニメ版の第2話で出てきた主人公が初級メダルを獲得した後に、同じスクールに通う子どもの親たちが「11歳なのにまだ初級メダルとか見込み無いのになんでやってんの」とか「手遅れの子どもに時間を割いているコーチどういうこと?」 みたいな下世話な陰口をするシーンがあった。非常に現代的で、経済的には平均値以上に豊かだが文化的精神的には豊かではない残念な大人のコミュニケーションだった。 現実には珍しい架空の出来事では決してなく、これは実際に今日もどこかで行われてる光景だろう。

フィギュアスケーティングの他のスポーツと比べた特異性

フィギュアスケーティングは他の多くのスポーツとトップ選手を目指すというコンテキストにおいて決定的に違う点がある。 時限性である。

同じ5歳の子どもが野球、フィギュアスケーティングを始めると仮定しよう。 一般的に人間の身体能力は幼少期には脳の回路形成と体の発達により急速に進んで、 骨格が成長し切る10代後半からは、俊敏性・しなやかさを定量化できるとすると、それらの能力で成長しうる最大値は徐々に低下していくと思われる。 突発的な俊敏性、体の柔軟性があまり要求されず、筋肉量や動体視力、知識などが重要な野球などの対戦スポーツでは20代後半~30歳くらいまで技術を向上し続けることが可能で プロ野球選手では30代後半でも1軍で活躍する投手、野手が珍しくない。

一方でフィギュアスケーティングは体の柔軟性、しなやかさが非常に重要なスポーツである。 骨格の成長が鈍化する頃には、その人が出せるジャンプ力、パワー、スピードの最大値がピーク付近になり、体が伸長することで同じジャンプも以前より美しくなる。 一方で骨格の成長とは同時に体の柔軟性の低下が始まることも意味する。そのため、骨格の成長や練習経験の積み重ねによる技術の増加関数と柔軟性・しなやかさの減少関数を 足し合わせた関数のピークがくるところが一般的にフィギュアスケーティング選手のパフォーマンスのピークとなる。そしてそれは16歳~20歳の間になってしまう。 そう、同じ5歳からプロ選手を目指して競技を始めたとしても、野球では25年間くらいパフォーマンスを高め続けることが可能だけれども、 フィギュアスケーティングの場合はその期間が半減するのだ。

その証左はこのアニメでも描かれており、主人公のライバルになる同い年のノービスBの優勝選手は小学5年生なのに学校をよく半休、ときには全休して 練習していることが語られる。野球においては、実はプロになった選手は小学生時代は学校を頻繁に休んで野球漬けの1日を送っていたなんて話は自分の知る限りでは聞いたことがない。

どの芸事でもプロになるために必要な練習時間は共通していて5,000時間だとか1万時間だとか言われているので、学校の放課後に毎日練習を続ければプロになれるかもしれないのが野球なら、 ピークに達するまでの時限が半分になるので、放課後から開始するでは足りず昼休みから半休して練習を続けることでなんとかプロになれるのがフィギュアスケーティングということなんだろう。

運動強度の高さがスポーツのなかで屈指のテニスだって30代になってもシングルで活躍する選手が多くいるので、フィギュアスケーティングがいかに特異なスポーツであるかがわかる。 なので、時限性が高くしかもその時限が1人の人間として成長途中の10代でやってくるというのが非常に興味深い点で、 フィギュアスケーティングを題材とした物語の時計が幼少期からスタートするからこそ描ける中身がこの『メダリスト』という作品にはある。

個人的には

子どもにコストをかけて何かを習わせる親の動機にはいくつかの種類があるけれど、個人的には、常に子どもにお金をかけるからこそ提供してもらえる稀有な教育資源に子どもが触れ 子どもに良い教育を与えたいと思うことのみが正しい動機だと思っている。

親が朝から夕刻まで働いて子どもの教育を他者に委任する必要がある現代では、委任する以上は対価を支払う必要があり、その対価の大小がその習い事の希少性と相関しており、 その希少性は子どもが触れられる経験の希少性でもある。ただ、教育効果を高めるのは子どもが得る体験に教育的な効果を付与する指導者のスキル、そしてレッスン後の親の関心を寄せる態度、応援であり、 指導者の教育スキルと習い事のコスト(学習塾、家庭教師を除いては)は独立しているため、経験の希少性と教育効果には明確な因果関係を認めることはできないが。

とは言え希少な教育資源、例えば幼少期からのピアノやバイオリンのレッスン、プログラミングスクール、野球、空手などを使って効果的に行われた教育成果は絶大だ。 なので、習いごとのコストと教育効果には常に明確な相関があるとは言えないものの、親はこういうことを動機として持って通わせる習い事を子どもの関心に従って決定して、子どもの成長に関心を持って応援し続けることが 真に子どもに益するはずだ。

『メダリスト』の凄み

ここで述べたことを思考できる一通りのきっかけが提示されている『メダリスト』は凄い。